2009年03月20日

与謝野晶子講座

与謝野晶子生誕130年「上目遣いの泣き虫晶子」
 〜もうひとつの情熱の歌人〜

暖かな2009年2月14日土曜日、目黒区男女平等・共同参画センター企画の講演会に行ってきました。

講師は、歌人 松平盟子氏。

声高に激情を表現する「強い女」としてのイメージのある、与謝野晶子の生身の姿に迫るという趣旨の講演で非常に興味深かった。

晶子と親交の深かった人々は、
「どんな時も声の消え入りそうな晶子夫人・・・」
「教卓に向かって腰かけられてうつむいたまま、関西のアクセントで読んでいかれるのを聞きながら、説明してくださるお言葉の中に『あの』がいくつあったかなど数えたりした。・・・」
等書き残しています。

また、晶子自身も評論集『一隅より』(1911年)に「わたしは無口な女で座談が誠に苦手である。訪問記者の方などに会う度に、何時も御話の出来ないのを御気の毒に思はぬ事はない。(中略)わたしには目のあたり会って頂かない方がよい。若しわたしの様な女が何か物を言うのを聞いて遣ろうと云ふ御方があれば、わたしの書く種種の拙い物を見て頂きたいと思ふ。」(33才)などと書いています。

謙遜やポーズではなく、本当にそうだったようです。

また、53才の時に書いた評論集『街頭に送る』(1931年)にも同じような文があります。そんな彼女が「書く・歌う」という表現方法を得たことはなんと幸せなことでしょう。彼女の生み出す言葉には誠を感じます。

講師である松平氏によれば、「晶子は自己表現の振幅の大きな人・・・非常にシャイな部分(感情を押し込める部分)とパッと感情・心を開いていく部分とがある」ということです。また、「商家の生まれであったことが関係していると思われることで仕事が速い。現実と向き合うことが出来る。分をわきまえている」などの傾向があるという。

婦人運動の始まりの時期に晶子は、「底上げをして女をみてはならない。底上げをして雑誌を作ってはならない」と現実の女、自分自身をみつめていたようです。そんな彼女の若い頃の歌は、率直・情熱的で有名です。が、今日の講演で私は、初めて中年期の歌を知りました。

16冊目になる歌集「火の鳥」(1919年)より
  物云へば 今も昔も淋しげに 見らるる人の 抱く火の鳥
  自らの 重き思いに圧さへられ しらじらと散る 心の薔薇(そうび)

18冊目の歌集「草の夢」(1922年)より
  恋すれば あはれ飛行(ひぎょう)も許さるる 身の程なれど 並々に泣く
  しみじみと 泣けば世界のかぐはしく なりぬこれより 超えずわが罰

夫鉄幹一途だったようなイメージの晶子ですが、どうやら中年期に有島武郎に恋情をよせた時代もあったようです。初耳で驚きました。こんな面ももっと知られた方が、晶子の魅力が増すような気がしました。作品・芸術にまで昇華するところが凄いです。ポーズで書ける歌ではない気がします。壮絶な葛藤があったのだと思います。

そして、その20年後の遺歌集「白桜集」(1942年)には、夫 鉄幹への(この頃は寛と名乗っていた)挽歌が収められています。
  筆硯煙草を 子等は棺に入る 名のりがたかり 我を愛できと

夫が一番愛した私をいれるべきなのではという想い、やっぱり凄いです。シャイで人前でしゃべることの苦手だった晶子。でも心の中には火の鳥がいた。その情熱から生まれる感情を書くことに向けることで、こんなにも率直で深い芸術が生まれたのだと、知り心が揺さぶられた。晶子が好きになりました。

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posted by FORTY at 16:07| Comment(0) | 知る
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